ひとはみなひとり

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人間関係を築けない

 ところで、人の心のないわたしですので、アバターもヒト型ではありません。「そういうキャラクター」としてインターネット上で活動しているということではなく、現実でもそのまま人の心が無いものとして見られがちです。
 人の心を解さないが故か、或いは舌禍なのか、人間関係の構築や維持が非常に不得意です。まあ、当ブログを定期的に訪れて下さっている方であれば、あらすじもご存じかとは思います。


 現状は、ごく限られた相手としか交流しないという形で、傷つけない/傷つかないよう対策をしておりますが、しかし、ええ、そうですね。それでも、職場では、いつの間にか倒すべき悪者になっていますし、インターネット上ではお世話になっている方々を悲しませたりしています。職場は現在進行形、インターネット上の方は一旦沈静化したものではあります。


 こう考えると、数年に一度しかケンカや言い合いにならない妻とのコミュニケーションというのは、奇跡的なものなのではないかと思うのです。
 はて、「奇跡」的とは。人智を超えた巡り合わせであるのは確かでしょうが、ケンカをしないというのははたして奇跡なのでしょうか。

素を出すことはよいことか

 妻を相手にする場合、ほとんどにおいて素を出します。

 隠し事(フェティシズムとか)はありますし、言えない愚痴(仕事のことを家で話したくない)はあります。終身不名誉ストーカー云々も、交際し始めのころに「元カノの話を聞かされているようで不快」と言われたきり、苦しくなったときも、話すことはなくなりました。

 しかし、大体の思ったことが口の端から漏れていきますので、心情の8割以上は伝えているように思います。

 何を考えているのかがわかる。
 または、何を考えているのかがわからないことがわかる。
 これは相手にとって大きな安心材料になる……のかもしれません。

 そういえば、先日、上司から「○○さんはヴェールに包まれて謎の人物」と言われました。わたしは他人から見れば謎の人物だそうです。
 わたしもまた、ミステリアスキュールビューティーの素質があるのかもしれません。

 冗談はさておき。
 妻を見るに、わたしのことを知った上で衝突する相手とは、その後の関係も良好です。
 反対に、わたしそのものではなく、わたしを基にした空想を討伐・玩弄・嘲笑の対象として対立してくる相手とは、和解のしようもありません。人の心とやらがあるらしい皆々様におかれましても、わたしの内心など知りもせずに好き勝手に言って下さるわけです。


 わたしが「他人を信用しない」という悪癖を持っているのが災いし、自分が何を思っているのかをまともに口にしないことが常になっています。
 もちろん、言うべきことと言わざるべきことがあるのでしょうが、その線引きが極端になっているように思います。インターネットではこの通りに言葉が多いですが、それでも、ポジティブにもネガティブにも、感じることのすべてを語るわけではありません。

我慢することは美徳か

 なにを考えているのかが相手に伝わるか否かが分水嶺になっている可能性については、上記の通りわかっているつもりです。
 一方で、円滑な人間関係の為に言わざるべきことというのも確かに存在するのでしょう。

 少し嫌だと感じたことを言わずにおいて、それで相手との関係が持続するのなら、それもひとつの在り方でしょう。しかし、それを続ければ、いずれは処理しきれない感情が堆積して、そして決壊します。その決壊は、嫌な目に遭わせた相手には何も響かず、大事に思ってくれる人を悲しませるものになります。
 嫌なことをその場で嫌だと伝えられるのが、相手との良好な信頼関係であるのだと思います。あるいは、嫌だと感じたことを第三者に吐露して、気持ちに整理をつけるのもよいでしょう。


 ただ、なんでもかんでも、あれが嫌だこれが嫌だと口にすることがよいことなのかと言えば、そうではないでしょう。
 常々イヤイヤと喚くのは、幼少にて自我の芽生える頃であったり、あるいは多感に春を思う頃であるのなら、それは生命として成長の一部ですから、ある程度は許容されます。
 その時期を過ぎて、なんでもかんでも嫌だというのは、ただのワガママでしょう。しかし、この判別が難しいところです。
 言わなければわからない相手もいますし、言っても通じない相手もいますし、言わずとも汲み取ってくれる相手もいます。


 わたしに人の心がないとする方々こそ、こちらが気を遣うことを当然と思い、ただ利用するだけに終始します。相手を人の心がない=人ではないものとしているからこそ、ムシやケモノのように対等に扱うことをしないのです。彼ら彼女らにとって、人ではないのだから、自分がやられて嫌な事を相手にしないという一般教養における「相手」として数えないのです。「我慢している」状態だから、弱音は漏れず、当然周囲にも聞こえず、そういった言葉が出てこないから加虐の許されるものと捉えるのが、あの手の輩です。我慢をするということが、相手をつけあがらせるのだと、自らの高校時代を振り返って、そう思うわけです。
  
 まあ、そういった手合いとの縁は切るに限るでしょうが、そこまでではなくても、自他の為に意思を表すということは必要なのかもしれません。
 人間関係保持のために、相手を気分よく過ごさせることのみならず、自身を守ることも考えるのならば、こちらにも心というものがあると表明することはひとつの手段として検討できるものなのかもしれません。

愚痴は零すべきもの

 愚痴を溜めこみ、決壊時に周囲を傷つけ悲しませるのなら、適度なガス抜きというものは有用なものでしょう。

 わたし自身にもあてはまることです。ブログに少しずつ書いてあることですが、昨年夏のアレや、昨年末のアレや、職場でのなんやかんやが重なって、妻を含めて愚痴を話せる相手がいなかったことで溜めこみ、何気ない言葉でトラウマトリガーが刺激されて自分も相手も悲しませる形になりました。
 どれかひとつでも、誰かに話を聞いてもらえていたのなら、事態は変わっていたように思います。

 なので、愚痴は零すべきものです。

 それを聞かされる方は、決してよい気分ではないでしょう。
 しかし、だからといって「愚痴を吐いたら迷惑になる」と無理をする姿は痛々しく、見ている側はつらくなります。そして、ひとりで抱えて重症化してしまえば、結果的に「愚痴を聞く」以上に「よい気分ではない」思いをします。
 
 公の場で話すことがはばかられるのなら、信頼できる相手に吐きだすのもよいでしょう。
 逆の立場に立ってみて、妻をはじめとした、数少ないわたしにとっての好きな人から頼られるのなら、それは負担に感じるものではありません。むしろ頼られることもなく、事態が悪化することを指を咥えて見ているしかないということを悔しく思います。……と、思いつつも、妻に愚痴を吐けなかったのがわたしですが。

仲間だとか絆だとかいう軽い言葉

 少し話題が変わりますが、わたしは「仲間」だとか「絆」だとかを口にする相手は信用に値しないものと思っています。加えて言えば、気軽に「愛している」と口にできる人物にも軽薄さを感じます。

 男児向けの作品を好む傾向にあるわたしですので、嗜む創作物において「仲間」だとか「絆」だとかというありがちな表現が氾濫しています。
 たしかに、その言葉に心を熱くすることはあります。絆を大切にする不動遊星はわたしの英雄ですし、信じあうのが家族だとしていたゴーゴーファイブは憧れの原風景の一端です。

 しかし。ええ、しかし。
 現実において、そのような言葉を用いる相手は信用なりません。

 それはそうでしょう。口先三寸で甘言を弄すのと、言葉が足りずとも行動に移すのと、どちらが実際に「絆」を体現し得るのかは明瞭です。それを、言葉に頼って「仲間」だの「絆」だのと。
 小中学生女子の「私たち友達だよねー」という確認と圧力と陰湿さに似ていますね(男子視点)。

 
 軽く薄く甘く虚ろな言葉を並べて、殊更に名前を付けて定義せずとも、よき関係にあるのなら、それは自然と「仲間」やら「絆」やらを感じられるものでしょう。
 言葉に頼って飾り付けるのは、中身が伴わないことを喧伝するようなものです。もしくは、その美辞麗句に酔っているだけです。


 ……いえ、違います。わたしにそういった言葉が縁遠いからといって、ひがんでいるわけではありません。いえ、本当に。

ひとはみなひとり

 この世に生まれた時から死ぬ瞬間まで、ひとはみなひとりです。
 自分以外はみな他人で、他人だからこそ理解は及ばず、故に相互不理解こそ人間関係の基礎です。

 なればこそ、わかりあえるなどという幻想を抱かず、他人は信用に値しないものです。
 なればこそ、他人は自分を傷つけ、自分は他人を傷つけるものです。
 
 なれども、自分から信用をしなければ、他人に信用されるはずもなく。
 なれども、傷つき傷つけ気づば築かれるのが絆とやらです。

 ひとはみなひとり。
 そのひとりひとりが別々の思惑や理屈や正義を掲げて、それに沿わないものを異物として蔑視・排除・冷遇します。
 誰もが誰もにとって、他人で部外者で傍観者なのです。相互不理解に基づき、無関心こそ最適解であるように思えてくるほどに、害し合います。
 そのなかで、たまたま生き方の利害が概ね一致する相手が見つかったのなら、それは僥倖です。わたしにとっての妻がそうです。もしかしたら、妻にとってのわたしもそうであるのかもしれません。

 ひとはみなひとり。
 だけれども、その中には自分を思いやってくれる人もいます。人間関係を築けないというわたしの特徴が事実である一方で、それでも持続する関係性もあるという事実を忘れずにいるべきです。

 ひとはみなひとり。
 だからこそ、持ちつ持たれつ助け合わなければ、生きてはいけないものでしょう。ひとりと、ひとりぼっちは、ほんの少しだけ違うのです。
 

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