先日の記事の冒頭で触れました「あるマンガ家が、お世話になった原作を悪し様に罵った」という件について、疑問に思う事があります。
社会人として、お世話になった作品を悪く言うのは、まあ問題行動とみて異論はないでしょう。
一方で、一個人としてなら、作品の好き嫌いがあることは当然許容されます。
作家としてではなく、一介の読者としてならば「嫌い」をいくらでも表明してよかったのだと思います。
社会人的によくない振る舞いだったというのはさておき、作家としての振る舞いと見ても疑問に思う部分があります。
いえ、わたしは何も作ることのできない無力で非才ないち消費者に過ぎませんので、これはあくまで苦言ではなく疑問です。
アニメのセリフの引用になりますが、「おでんのことしか知らない人がおでんを作っても、それは縮小再生産。新たなアイデアやビジョンは常にアナザーディメンションからやってくる」という考えが、何事にも非常に参考になるものとわたしは捉えています。
当該セリフでは前後の脈絡から「おでん」とされていますが、ここに何を代入しても、大抵の場合は成立する理屈かと思います。
「バトル漫画のことしか知らない人がバトル漫画を描いても、それは縮小再生産」
「ホラー小説のことしか知らない人がホラー小説を書いても、それは縮小再生産」
なにかを「作る」ことを志すのなら、自身にとってのアナザーディメンションとはアイデアの源になるものなのではないでしょうか。
仮に嫌いだったとしても、冒頭の話題で触れた作家は「中世ラブロマンス」というアナザーディメンションから得るものはまったくなかったのでしょうか。
わたしはこの通り、偏屈で狭量な性格なので、嫌いなものや気に入らないものは世の中に溢れています。ですが、何かの折にそれらに触れた時に思いもよらない学びを得ることがあります。
今回引用しているアニメのセリフもまさにそのひとつです。全体で見るとそこまで好みに合致するものではありませんが、このように素晴らしい考えを知ることができました。
食わず嫌いはいけません。そして、「嫌いなものでもしっかり食べないと大きくなれない」というありがちな言葉は、身体を作る為の食事のみならず、精神を作る為の作品の摂取にもあてはまるものなのだと思います。
ところで、わたしの好む作品は見下されがちです。
人生の教科書として思い出の中で大事にしているギャルゲやエロゲ、憧れのヒーローたちの物語として現在進行形で焦がれる特撮ヒーロー作品、様々な教養を得る機会をくれたトレーディングカードゲーム……。どれも低俗なものと評されるのを見聞きすることがあり、悲しいです。
同じ読み物であるはずなのに、時代小説やミステリー小説などに比べて見下されるギャルゲ。同じドラマ作品であるはずなのに、刑事ドラマや学園ドラマなどに比べて見下される特撮。
繰り返しになりますが、個人の好みにより作品に優劣や高低、貴賤をつけることは誰に咎められるものでもありません。
しかし、作品を作る側の人間がこれらを見下すというのは、どのような考えによるものなのか、わたしにはわからないのです。
自分の好まないジャンルのものであっても、自分の作れないものを作った相手とその作品には敬意を払うべきなのではないでしょうか。自分の作品や、自分が好む作品こそが至高のものであって、その他のものはすべて歯牙にもかけず唾棄すべきものという考えなのでしょうか。
気に入らない作品ならば、なにが気に入らない要素であるかの考察や、どう「改良」すれば自分好みになるのかと試行するのが勉強になる……のではないのかと、消費者としては疑問に思うのです。
縮小再生産にならない為に必要なアナザーディメンション。それらに対するリスペクトがなくても成立する作家性。
素人として、この歪さが不思議でなりません。
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