自己PRが苦手
わたしは自己PRというものが極めて苦手です。
自分を売り込むということができません。生来の引っ込み思案というのが理由の1割程度。売り込む為の要素が見当たらないというのが、残りの9割になりますでしょうか。
就職活動で履歴書を書く際や、面接での問答で一番困ったのが、この自己PRでした。そうして就職してみて、一般に営業職として扱われる業務をしていますのに、未だにアピールが苦手です。営業に行っても、顔を売るということができません。困りましたね。
自分を売り込むのが苦手と申しますか、自分の中の売るべきものを把握していないというのが正確でしょうか。
アピールポイントやセールスポイントというものが思い当たりません。
特技と呼べるものがありません。
これといって目立つ技能、秀でたものがありません。
一芸とまでいかずとも得意なことというのもありません。わたしに出来る事は大抵の人に出来る事です。
何が出来るのかということに限らず、就職活動でよく訊かれる「入社して何をしたいのか」という問いにも、答えに窮します。
目標というものがありません。何事においても、志が低いものですから。
できることもなく、したいこともなく。ナイナイ尽くしです。アピールすべきことが見当たりません。
いえ、意味なし価値なし能無し名無しを自称してはばからないのですから、今更確認するようなことでもありませんが。
できることとかしたいこととか
何ができるのか。
何をしたいのか。
何をすべきなのか。
何をしなければならないのか。
これらは似ているようで異なります。
できることだからといって、必ずしもやらなくてよいです。
したいことなら、強制されずとも好きに取り組んでよいのです。
すべきことなら、できなくてもできるようにならなければなりません。
しなければならないことは、したくなくてもしなければなりません。
これらすべては、隣り合ってはいても、同一のものではないはずです。
一度に考えてみてもわからないことなので、ひとつひとつを別のものとして分けて捉えて、ゆっくり知るのがよいのでしょう。
もちろん、そのひとつひとつにも「何において」という枕詞をつけておかなければなりません。
仕事において、何ができるのかとか。趣味活動において、何をしたいのかとか。
仕事においてのできることというのなら、具体的な実績が技術のアピールが必要になるでしょう。
趣味活動においてしたいことならば、(公序良俗に反さなければ)漠然とただ自分が楽しみたいというのも「したいこと」でしょう。
できることやしたいことがひとつでも見つかれば、連鎖的に残りの事柄を見つけることも可能かと思います。
直近でわたしが「したいこと」として考えたのが、自作カードゲームの制作です。
これを叶えるためにわたしにできることは、ルールやカードデザインの方向性を決めることです。すべきことは、印刷所の選定や、綺麗な絵を用意する為に絵の練習をするか、信頼できる絵師を探すことなどです。しなければならないことは、印刷や絵の発注のためにお金を貯めることなどです。
このように、「したいこと」ひとつから他のことを見出すことができました。
問題は、趣味活動はともかくとして、仕事などでの自己PRにおいては、とっかかりになる最初のひとつを見出すことすら困難であるということです。
自己覚知を試みる

敵を知り己を知れば百戦危うからずです。己を知ることは何事においても肝要でしょう。
己を知るということ。すなわち、自身を俯瞰視することや自己覚知というものが重要になってきますので、ジョハリの窓を活用するのがよろしいのかもしれません。
自分から見た自分、他人から見た自分を照らして、よいところ・わるいところを知るというのは、自己PRへの苦手意識克服の足掛かりとして有効であるように思えます。
問題は「わたしがどう見えているか」と尋ねることのできるような仲の他人が、ろくろくいないということでしょうか。
わたしが気軽に話しかけられる相手といえば、妻ぐらいです。妻に問えば「いつもテキトーなこと言ってる」等の意見を聞かせてくれそうです。同じ心理学科の出身として、懐かしい話題として振ってみるのもよいかもしれません。
ただ、「妻から見たわたし」を知るに留まるので、おそらく現状以上に自己覚知を深めることにはつながらないというのがネックです。毎度のことですが、なにかしようとすると、気軽に話せる/頼れる知人友人がいないというところで足踏みをしてしまいます。
気軽に話せる相手のいらっしゃる方は、仲間内での会話のネタとしてジョハリの窓を共有してみればよいと思います。
「自分はこういう人間だ」というイメージと、ひとから言われる「あなたはこういう人間だと思う」というそれは必ずしも一致しません。その差や、他人からどう見えるのかというのを知る機会はあってもよいでしょう。
「あなたは何ができるのか。何をしたいのか」と問われて、自分で答えを出せないのなら、誰かに「わたしにできる(得意な)ことはあるか。何を望んでいるように見えるか」と訊いてみるのが上策です。わからないことは、ひとにきく。やや意味が違いますが、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥というのは、この話題にも通じるところがあると思います。
そういう話ができる知人友人に恵まれるだけの人徳があるのなら、それを活かすことに罪科を問われることはないでしょう。
おわりに
「なんの為に生まれて なにをして生きるのか」とか。
「なぜに生まれてきたかなんて考えてもわからないんだ だから生きる」とか。
「何を掴めるのか? 何が出来るのか? 踏み出す 僕らで見つける きっと」とか。
生きる上で何ができるのか、何をしたいのかということを、多くの歌が問うています。そして、概ね「答えを見つける為に生きる!」というような答えを出しています。
もしかしたら、これらの答えは今を生きた先にあるのかもしれません。
今際の際にようやく、実はできていたこと、本当はしたかったこと、すべきだったこと、しなければならなかったことに思い至る……ということもあるでしょう。
つまり、考えてわかることもあるかもしれないし、その人それぞれの「その時」が来ないとわからないこともあるかもしれないということです。そりゃそうじゃ。
自分のそれらを知ろうとすることはもちろん大切なのでしょうが、試みがうまくいかず見つからないとしても、焦ることはありません。とにかく今を生きていれば、いずれは見つかるものも、きっとあります。……と、自分に言い聞かせておきます。
いつかは自己PRというものが出来るようになるとよいのですけど。
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