ネガティブ感情の瀉血

その他





 「ふつう」であるだけで、「ふつう」でない者を嗤う者。
 「ふつう」でないだけで、「ふつう」である者を逆恨む者。
 どちらの立場にあろうとも、その視界はその者だけのもの。他方の世界を認識すること能わず。
 けれども各々の視界こそが標準なのだから、それと異なるものを否定し嫌悪し嘲笑し、あるいは妬み恨み憎むことに不思議はなく。
 ヒトモドキならずとも、齟齬相違。ヒト同士ですら相互不理解。自分自身すら怨敵になり、他人の心など永遠に解明不可。
 
 
 

 想定外のことで受けたダメージに蝕まれている典藻のりもキロクです。
 他者の価値観は己のそれと異なるものであることは重々承知でありますが、不意に流れ弾を受けまして、思ったより疼いています。


 言うまでもなく、わたしは「仕事ができない」「使えない」ヤツです。そのネガティブを埋める為に時間や金銭や労力といったもので、足りない能を補強しているのです。具体的には早出残業休日出勤サービス残業サービス出勤自爆営業エトセトラです。正論で言えば、「お前が勝手にやっただけのことで喚くな」と切り捨てられるようなものです。そうですね。返す言葉もございません。わたしが悪い。
 それをわかっていても、限られた時間で、やらなきゃいけないことに、充てられる人数わたしひとりで立ち向かうのなら、正論正道正攻法では到底かなわないのです。だってわたしには能が足りないから。
 どうあれわたしは意味無し価値無し能無し名無しです。悲しいですけれど、「ふつう」を相手に勝てることも誇れることも無い、無能で怠け者のノータリンです。


 対人コミュニケーションの能力や技術の水準が低かったのは、幼稚園の頃の思い出にすら心当たることがあります。ヒトと正しく関われない、きっと生まれついてのエラー。
 エラーはコミュニケーションのみならず、脳足りんならず能足りん。



 あれは小学1年生の頃のこと。国語の授業で「春」をテーマに詩を書くことになりました。
 子どもの時分の典藻が書いたのは3つ下の弟に焦点を当てたものでした。「あたたかな日差しが~」とも「さくらの花が~」とも書かれていない詩でした。
 どうしてそんな詩になったのかは覚えていません。先生が「春」をテーマにするように言ったのを聞いていなかったのか、子どもの感性で「春」と「弟」を結びつけたのか。

 そんな詩なので、母は怒りました。
「これのどこが『春』なのか。どうしてこんなものを書いたのか。もっとちゃんと書けなかったのか」
 怒られてどんな気持ちになったのかも覚えていません。がんばって書いたものを否定されて悲しかったのか、怒られてただ萎縮していたのか。

 なにがどうしてそうなったのかはわかりませんが、この件について、母と先生が話し合っていたようです。
 母は先生から「怒る前にどうか10秒だけ待ってあげてください」ということと「私は弟さんを想う○○くんの感性はよいものだと思いました」とフォローしてくれていました。なぜかここはよく覚えています。
 まあ、その後また別件でも、幼少の典藻がダメダメだったせいで、母からは「10秒なんて待てない」「10秒待っても変わらない」と怒られていましたが。




 創作の才能がないからといって、運動や勉強ができるわけでもありません。
 さかあがりも二重跳びもついぞ出来ず。マラソン大会はビリ常連。体育でチーム競技などしようものなら、つねに足を引っ張ってクラスメイトから「脳みそついてんのか」と責められる。
 テストは少しでもサボればがくっと点数を落とす。宿題でドリルを数ページ解くだけのことに何時間もかけて「終わらない」と泣く。

 才能がないぶん見目に優れるかといえば、当然そんなわけもなく。外見を気持ち悪がられ、からかわれ、嘲笑われる。


 せっかくの五体満足を何も活かせず、価値あるものを創出することもできず、ただ惰性で死にたくないから生きるだけ。果ては生きる為の労働すら、ろくな成果も出せず、仕事は「いらない」と断じられ、働き方も「正しくない」と否定される。

 
 ああ、対面した相手にほめられることもたまにはあります。
「育ちがよいわね」「品がよいね」「きっと親御さんの育て方がよかったのね」
 そうです。母の指導の賜物にて。わたしの身につけたものではありません。わたしの頑張りではありません。わたしが誇れるものではありません。わたしのモノじゃありません。

 
 「春」というテーマで「弟」についての詩を書いたあの日に、「自分は頭がおかしいのだ」と自覚すべきだったのです。不出来な能無しジャンク品。人並みに認めてほしいなどと思うことこそおこがましいヒトモドキ。
 それを自覚して慎ましく生きていたのなら、好いた人を脅かすこともなく、あるいはわたし自身が終身不名誉ストーカーの罪悪感を抱えることもなかったのでは。


 誰かにとって有用ならば、きっと存在を許される。誰かの役に立つのなら、きっと好かれるヒトになる。
 そんなものは夢です。幻です。
 わたしに発揮できる程度の有用性など、いくらでも上位互換が存在するのです。




 喜捨などと。
 ノブレス・オブリージュなどと。
 持てるのならば授けようと、身の丈にあわないことをして。
 削いだ身は削がれたまま。手放したものは一方通行。宵越しの銭あぶく銭。
 能無しの渾身なけなしは、駄菓子程度の価値もなく。
 当人に価値がないのだから、その時間にも当然価値は無く。
 まさに一秒の格差。


 もともと頭がおかしいのだから、壊れるぐらいに戦ったとして、それでおかしくなっても何も変わらないのでは。
 体が動けば働ける。働けるうちは心身が健康であるとみなされる。反動で急死できるのなら万々歳。生ける亡者で、心なき生者。

 求められる成果の為に、心を切り売りして走る血を吐くマラソン。
 マラソンならばわたしは常にビリっけつ。過程でズルしてようやくトントン。
 すぐに酸欠。減速。身悶えしても、成果がすべての血を吐くマラソン。
 いつでもビリの成果ランナー。


 感情のままの乱文。心情の吐露。無情。瀉血。

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