わたしは自己愛のケダモノなれば

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 おはようございます。コールミーレイジ―、典藻のりもキロクです。
 あたらしい。
 
 
 今回は個人ブログらしく意味の通らない独り言です。何らかの意図が込められたものでもありません。
 余計なことを考えて溜まった心の膿。怪文書と呼んで差し支えないでしょう。
 ちなみにわたしは極めて前向きでポジティブで楽天家の能天気なので、そのあたりは誤解なきようお願いします。
 ところで妻はわたしの半身と呼ぶべき存在なので、自己愛以外を持ち得ないわたしの「自己」に含んでよいものと考えております。




 
 ブログ内で度々書いておりますが、わたしは「ヒトモドキ」や「自己愛のケダモノ」を自称しております。
 容姿を貶されて妙なあだ名で呼ばれることはありましたが、他人から内面を指して「ヒトではない」と呼ばれたことはありません。普通だとか常識だとかというものを弁えている方々は殊更に「ヒトの心とは何か」と自問自答しないのかもしれません。あるいは、相手を揶揄するようなさもしい人種は相手の内面を見て評することをしないのかもしれません。
 まあ、なんでもよいです。

 どうあれ、わたしの自認としてわたし自身はヒトを名乗るにおこがましいヒトモドキであるということです。

 わたしは他人の顔と名前をろくろく覚えられません。推測するに、ヒトが怖くて顔を見る頻度が少なかったり、そもそも他人に興味が無い事に起因するものではないかと考えています。
 わたしは人間関係を維持できません。きっと心を通わせることができなかったからです。何故なら通わせるべきヒトの心を持ち合わせていないから。
 わたしには進歩がありません。ずっと同じところに留まって、気づけば周りは遠くまで進んでいます。しかしココが心地よいのです。

 ヒトの心がないからこそ、ヒトとヒトとのあるべき距離というものを間違えて終身不名誉ストーカーとなったわけです。
 しかし、その過ちがあればこそ、自分がおかしいのだと気づくことができたわけですから、決して暗い記憶ではないはずです。
 それまで自分は「普通」で「善性」側のヒトだと思っていたのに、ある時「そうではない」と気づくことは中々に衝撃的でした。自分は「異常」で「悪性」で、そもそも立つべき位置はヒトの枠ではないヒトモドキ。

 初恋の人を怖がらせてしまった償いと、そうすれば認めてくれるかもしれないなどという幻想から、「死にたくない」という生きる理由が揺らぎました。
 ですが結果はこの通り。今も彼岸に向かうことなく、惰性で生にしがみついています。
 口に出した好意の如何に薄っぺらなことか。
 口では何と言おうとも、「他人の為」という自己正当化の大義名分があろうとも、結局「怖い」、「死にたくない」が上回って何も遂げられない。
 初恋などと綺麗な言葉を使っていても「他人の為」に自分を投げうてない。所詮は自分が可愛いだけ、自分以外に愛などない自己愛の化身。
 他人を対象とした恋だの愛だのを語る資格のないヒトモドキ。ゆえに自己愛のケダモノ。


 自己愛のケダモノなので、自分の心身の保護を第一に行動します。だって自分が観測できなければ世界は無いも同じです。これは世界を守る為の逃避です。自分を愛せないのではヒトを愛することもないでしょう。
 自己愛のケダモノなので、ヒトを真似て着飾ります。誰かの言葉、誰かの振る舞い、誰かに好かれる誰かを真似れば、わたしも誰かに好かれるかもしれませんから。
 自己愛のケダモノなので、自分によくしてくれるヒトには報います。受けた恩を蔑ろにするのでは、「甘んじて恩を受けた自分」を裏切ることになります。これは自己愛に反します。

 ヒトの心を持たないので、ヒトの在り方に憧れます。
 悪性でしかないので、善性に焦がれます。
 自己愛しかないので、他者を慈しむ者が輝いて見えます。

 だけど、ケダモノなので、ヒトを理解できません。

 理解できないならと、ヒトの心を推測して考察して仮定して接します。
 理解に遠く及ばないので、きっとヒトを傷つけることもあります。
 理解が出来ないから、捨てられないように有用性を示し続けなければいけません。

 でもそんなのは疲れてしまいます。他人の為に疲れるなんて、自己愛のケダモノの在り方としてはおかしいです。
 他人は「ヒトの心」を学ぶための先生です。師ではあっても友ではありません。学びを得る以上の関りを望むべくもありません。
 わたしが「誰か」を大切にしようとしたところで、「誰か」がわたしを大切にしてくれるわけでもありません。
 だからわたしは人間が嫌いです。嫌いなものに捨てられたとて、覚える悲しさは些細なものです。だから嫌いです。

 他者愛を持たないケダモノ。ヒトには成れないヒトモドキ。
 わたしのような者はただ自己愛に生きればよいのです。
 自分の目に見える範囲、自分の耳に届く範囲、自分の手が伸ばせる範囲。狭い狭い「自分の世界」を大事に、それだけを愛していくしかないのです。
 わたしが負える責任はその程度。わたしが追える理想もその程度。わたしが終えるべきわたしは広げすぎずにおくべきです。

 わたしは自己愛のケダモノなれば。

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