お金の重みは人によって違うもの

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 当然と言えばそうなのですが、お金の重みは人によって違うものなのだと感じる今日この頃です。
 お金の価値という話ではありません。同じ10円なら、庶民だろうと大統領だろうと、等しくうまい棒に交換できます。うまい棒はもう10円では買えない? HAHAHAご冗談を。
 とにかく、「同じ金額を持っているのなら、基本的に同じ買い物ができる」という意味で、お金の価値が持ち主によって変わることはありません。
(もちろん、区別や差別によって、売ってもらえないという事態もあるでしょうが)


 一方で、わたしが重みと表現したものについては、誰が見るかによって大きく変わるように感じています。

 わたしは主義に反して、それなりにお人好しバカなので、他人の助けになればと財布のひもを緩めることが、ままあります。
 浪費がストレス発散になるわたしといえど、自分に何の見返りもない人助けは、浪費可能なリソースが減るという意味で一面的に見ればただの損失です。別の面に目を向ければ、「いい人」の振りをできるという自己満足は得られます。ただ、出した金額に見合うかどうか、毎度首を傾げています。

 いえ、相手方が気持ちのよい人であれば、わたしだって「これでよかった」と思えるのです。毎回毎回そうとは限らないという話です。モヤモヤが残るのは、わたしと相手方とで、その金額に対しての重みの感じ方の乖離が大きい時かと思っています。 


 平均でも最頻でも中央でもありませんが、仮に1万円という金額を相手の為に使うものとして、例に用います。
 同じ1万円でも、わたしにとってのそれと、相手方にとってのそれは違うものなのです。わたしにとっての1万円は、n時間分の労働の対価であったり、n日分の食費であったり、あるいは趣味である浪費に回せば大好きな玩具が手に入る、とてもとても貴重なものです。
 それが相手によっては、大変に感謝されることがある一方で、「たったの1万円」として捉えられることさえあります。わたしが食費や娯楽費を削って我慢して、相手の為になればと捻出したそれも、受け取る側には大したものではないということがあるのです。これを空しく思うことは誰に咎められるものでもないでしょう。

 たとえば、相手が総資産5000兆円の大富豪なら、そりゃあ1万円なんて、はした金でしょう。逆に、今日の食事にも困るほどに貧して鈍している方からすれば、「お前は食うに困ってないのだから、自分に金を寄越して当然」という態度にもなるでしょう。どちらも理解できます。
 しかし、5000兆円をバイト代の積み立てで築いた方ならば、その一部である1万円が如何に大事なものかをわかるかもしれません。あるいは、困窮しているからこそ、お金にありがたみを感じて感謝をして下さる方もいらっしゃるでしょう。
 貧富によらず、個々人の置かれた環境やら積み重ねやらによって、感性は異なるものです。……やや極端な表現をしましたが、概ね間違いはないかと思います。


 この「1万円をどのように捉えるか」を指して、お金の重みと呼ばせて頂きます。


 
 繰り返しになりますが、貧富によってお金の重みが変わるわけではないと、経験則上、感じています。
 仕事柄、お客様に業務外での用具の修理やらなにやら、部品代のかかることで頼られることがあります。大抵の場合は数百円~数千円で済むものなので、「いや、このぐらいいいですよ」で済ませてしまいます。バカなので。

 ですが、それに対して「かかった金額が大きくても小さくても、お金はお金だから」とおっしゃる方もいらっしゃいます。レシートもないような買い置きの部品でも、購入に要した金額を払って下さるのです。100円ショップの自転車バルブであったり、ホームセンターで買ってきた合板であったり、それこそ数百円~数千円で幅はあります。
 住まいや身なり、仕事での相談で聞かれる様子から、なんとなく、それぞれの経済状況は察せられるものです。「お金はお金だから。大事なものだから」と言って下さる方々に貧富の偏りはありません。裕福な家庭もあれば、その逆もあります。


 そうかと思えば、何度かブログ内で触れている〇万円の粗大ごみの話のように「出してもらって当然」というような顔をする方々もいるわけです。
 あのお金があれば、わたしは今頃Live2Dモデルをモデリング付きで外注に出せていたのに、と思うぐらいの金額です。(どうせ外注先とトラブルを起こすので、実際は致しませんが)
 或いは、CSMカリスアローが買えていたとか、1年以上購入を後回しにしているアレコレに手を出せたとか……。7年以上も敷布団の無い生活をしていないだとか。まあとにかく、1年近く経っても「出してよかった〇万円」と思えない出費になっています。


 浪費を趣味としていながら、ケチ臭いとお思いでしょうか。「だからこそ」だと申し上げたいです。見返りのない出費は、自分の為の浪費の機会が減ることになります。その分、ストレスが発散できずに溜まるので、大きなマイナスにつながります。
 「いい人」の振りをして満足感を得ようにも、「出してもらって当然」と思っている相手にとってみれば、金づるかATMかという程度のものです。満足のいく感謝は為されません。


 お金の重みの感じ方が近しい場合でも、もしかしたら、ポンと気軽に出しているように見えるのがいけないのかもしれません。だとしても、「1万円は大金」と思うのなら、相応の受け取り方をしてほしいです。他人の為に軽々しくお金を出せるわけがないのです。
 人目のないところで唇を噛み、膝に爪を立て、自分の為にならない出費に、わたしが毎度葛藤しているのを知って頂きたいものです。


 ……というようなことを、考えてしまいました。よくありませんね。
 先だって○万円の粗大ごみをついに処分した後のこと。買い置きの部品にお金を払ってくれるお客様の優しさに触れて、人によって随分違うものだな、と感じてしまったもので、つい。

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