典藻キロクはキラメンタルを持ちたい

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心にキラメキを

 突然ですが、わたしはキラメンタルを持ちたいのです。
 いえ、「キラ」のメンタルのことではありません。デスノートを手に犯罪者を裁き、新世界の神を目指したいわけではありません。

 キラメンタルは「魔進戦隊キラメイジャー」の作中用語です。ざっくりと言えば、キラキラしたメンタルです。
 そうです。淀んだ性格をしているわたしですが、それでも心にキラメキを持ちたいのです。

 きらめけば何かがよくなるだとか、願うものが手に入るだとか、そういった益体もないことを考えているわけではありません。逆です。何かをよくしようとしたり、願うものに向かって走れば、そこにキラメキが付いてくるのです。
 
 キラメンタルは誰かに与えられるものではありません。自分の中に見出すべきものなのです。

 と、言われても、なんのことやらわかりませんね。キラメンタル云々にいたる経緯を説明する為に、段階を踏ませてください。

「文章を書くのが楽しくない」という異状

 端的に言って、少し前からわたしは「文章を書くのが楽しくない」状態になっていました。上記画像の投稿は、その不調から来ています。

 楽しくないからといって、苦痛に感じるわけでもありません。ブログを毎日のように更新していたときの楽しさはどこへやら、苦痛すらもなく、あるのは虚無感です。

 書いている内容自体がネガティブなものであっても、自傷には自傷なりの楽しさがありました。感情の整理にもなりますから、書いた後は少しスッキリしますし。気分が沈んでしょうがないときは、記事の内容が後ろ向きにもなりますが、それでもやはり趣味ですから、どこか楽しいものではあったのです。

 楽しかったことが楽しくなくなるというのは、それなりにしんどいものです。

 原因について、割とはっきり自覚しています。
 あまりに大きい悔しさやら妬ましさやらの重みに、自尊感情が耐えられませんでした。平時なら「自分は自分、他人は他人」で済ませられる程度のことなのですが、そう思えないほどに感情が乱れてしまいました。詳細を書かずとも、要旨は伝わるかと思いますので、この場では具体的に何が切欠なのかは伏せます。
 
 虚無の状態でブログを書いても、読むほうもツマラナイだろうと思いまして、数日間、更新をしていませんでした。また、状態悪化の防止の為に、現在進行形でSNSでの他者の発信と距離を置いています。今の状態では、無関係な人の発信を見ても、なんらかの悪感情が発生してしまいそうなので。

特ソンで気分をアゲようとしてみて

 楽しくなくても、書いていれば気分もアガるだろう……と、下書きを進めてみたりもしました。それも考えが甘かったようで、むしろ「書くのが楽しくない」というのを実感するほど、余計に気分が沈んでいきました。

 そういう時は気分転換です。
 普段から、歌を聴くことが生活の一部になっています。気分をアゲたいときは、戦隊シリーズやプリキュアの主題歌を延々と聴くようにしています。子供向け番組のオープニングテーマというのは、前向きな言葉が散りばめられていますので、無理やり元気を出すのに向いているのです。

 今回は気分転換の為に、戦隊シリーズの主題歌にしました。気分ブンブンぶん回す為にも、生まれ年の作品から最新作までのオープニングテーマを延々とループして己を鼓舞します。声を出せる元気があるときには、うろ覚えの歌詞を口ずさんだりもしていました。
 その中で「魔進戦隊キラメイジャー」(同名作品の主題歌)を歌っていた時、2番の歌詞に、がんと頭を殴られたような衝撃を受けました。

本気だから 前しか見えない

 この歌詞に、腑に落ちるものがありました。
 わたしが本気じゃないから、後ろを向いて、昔に残してきた悔しさを感じたり、横目に他人を見て、妬ましさに心を焦がしているのです。本気なら、前しか見えないのです。後ろや横を見ている暇なんてないのです。わたしは本気じゃなかったのです。いつものように、また何もがんばっていなかったのです。

 今まで何度も歌ってきたのに何も感じていなかった歌詞が、急に心に刺さりました。試しに、この曲だけを繰り返し聴いてみたところ、その他の歌詞からも元気と気づきをもらいました。

夢を描くけど 外の世界はみだせないまま
好きなことを信じる力
つまずいた後の青空を ずっと見ていた 憧れた理想は遠くて
キラキラ輝くために 僕らはめぐり逢ったと思うから 傷つき磨き上げる

 キラキラした詞に、沈んだ心に一条のキラメキが差し込んだようでした。
 ついでに、前向きになろうと視聴した「機界戦隊ゼンカイジャー」では「結果出すまで全力全開!」というセリフに励まされました。そうです。わたしはまだ何の結果も出せていません。全力全開でいかないといけません。ちょわー! です。

ネガティブよりもポジティブな記憶を思い出して

 キラメイジャーとゼンカイジャー(あとついでにドンブラザーズも)に励まされまして、わたしの書く文章にも意味があるのだと思い出せました。

 高校の図書委員の後輩のKさんからは「先輩の頭の中を覗いて、どういう世界があるのか知りたいです」と小説の感想をもらいました。
 大学の同期のOくんからも「続きが読みたい」と言ってもらえました。
 
 たとえ、お世辞だったとしても、声に出して褒めてくれた人がいるのです。
 ブログ記事についても、わたしに対して嘘をつかない妻から「ちょっと面白かった」と言われています。ちょっとでも、面白いと思ってくれたのです。

 また、文章自体でなく取り扱う内容に対してではありますが、「癒し」であると好評をくださる方もいらっしゃいます。
 記事を投稿する度に、少なくともひとりは欠かさず読んで下さっているような様子もあります。いいねボタンを押してくれている方もいます。
 閲覧数の伸びるペースを見るに、(たぶんひとりで)何十回も同じ記事を舐めるように読んで下さっている方の存在もあります。

 今回の原因になった相手以外にも、わたしの書いたものをバカにする人はいましたが、そちらに目を向けても仕方がないのです。
 お世辞かもしれないという気持ちは拭えませんが、それでも賛の意見を出力するという一定の労力を使ってまで、わたしに言葉を届けてくれる方々がいるのです。ちゃんと、わたしの書くものに意味はあるのです。

「本気だから前しか見えない」

 今はまだ、淀みから脱せていないように思います。書くことへの虚無感が晴れたとはいえ、悔しさと妬ましさに押しつぶされた自尊感情はそのままです。「どうして、わたしの書いたものを踏みにじったあの人が、わたしの夢であった『書く仕事』に届こうとしているのか」と、思わずにはいられません。
 いえ、「どうして」というのならば、それは他人から見て面白いものを書けているか否かの差なのだと、わかっているつもりです。面白いものが書けないから、わたしはダメなのです。

 しかし、それですべてが無意味になるわけではありません。読んで下さる方がいます。賛の声を届けてくれる方がいます。

 ブログでの投稿で否の意見を受けたのは、たったの1回です。病める時も健やかなる時も、老いも若きも男も女も、誰が読んでも文意を解せるようなものを書けなかったという落ち度は、確かにわたしの方にあります。でも、そのたったの1回で、自暴自棄にすべてを否定する謂れはないのです。

 後ろの悔しさや、横目の嫉妬心に視線をやらず、前だけ向けるように本気になればよいのです。

 たとえば、ベジータや海馬のように、敗北によって傷ついたブライドは、勝利によってしか癒せないものでしょう。自身の誇りは、自身でしか取り返せません。

 つまりは、わたしの書いたものに値がつけば、きっと納得できるのです。
 「面白い」と誰かに言わせられるものを書き、それに1円でもお金を払ってよいという人が現れれば、それが自尊感情を癒してくれるでしょう。わたしが書きたいもの、わたしが書いて楽しいものではなく、読み手が値をつけてくれるものを書くのです。
 おあつらえ向きなことに「書くのが楽しくない」という経験をしたところです。楽しくない書き物をすることにだって耐えられるはずです。

 もちろん、このブログでは好き勝手に書きますが、どこか別のところで、いつかきっとリベンジを果たします。前しか見えなくなるほどの本気というものを、出せるとよいのですけれど。
 そうして本気で臨むのなら、きっとわたしにもキラメンタルが宿ります。典藻キロクはキラメンタルを持ちたいのです。

 

 

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