自分で決めたのに、手放して惜しむ気持ちもある

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 記事タイトルに反して、そう暗い話ではありません。身構えなくて結構です。
 わたしらしさの再発見というような話です。


 何事も長続きのしないわたしですが、それ故に思い付きだけで気軽に手を出した趣味もあります。そのうちのひとつにバイオリンがありました。
 いろいろあった高校の頃、バイト代を貯めて、お安いバイオリンと教本1冊を買いました。

 楽譜なんて読めませんから、いわゆる耳コピ? というやつでアニメやらゲームやらの曲を練習していました。
 一応、「それらしく聞こえる」程度に仕上がったものも1曲だけあります。

 教室に通うお金を惜しんでいましたので、教本を読みながら試行錯誤していました。なつかしいです。
 練習場所は自宅だったり、「ぼっち飯」用に掃除・整頓した校内の物置き場でした。

 何故に手を出したかといえば、「人に好かれたかったから」というのが理由のひとつにあります。
 勉強ができればよいのか、お金があればよいのか、特技があればよいのか……。どうすれば友達ができるのか、どうすれば彼ら彼女らに嗤われる日々から抜けられるのかと、迷走して辿り着いた試行です。まあ、結果として意味はありませんでしたが。

 特技を身につけようとするだけなら、別にお金のかかる楽器じゃなくてもよかったはずです。それでもバイオリンを選んだのは--これはわたしの単純なところで、よくないところでもあるのですが--当時のアニメからの影響です。一ノ瀬ことみだったり、久瀬修一だったり。
 創作物において、バイオリン弾きは美形が多いです。逆説的に、バイオリン弾きになれば、「人から好かれる」美形の要素を持っていることになります。そういった愚かな考えでした。



 場所の都合もあって、練習できる時間というのはとても限られています。まさか団地の一室で夜間に楽器を弾けるわけもありません。まさか音楽室すぐ近くの物置き場で、吹奏楽の邪魔になるようなこともできません。独学かつ怠けながらの練習でしたが、我ながら、よくもまあ続いたものです。



 そんなバイオリンですが、5年に満たない付き合いのうちに手放しました。
 話題が逸れてしまうので経緯は省きますが、あの頃、わたしが初恋の相手にフラれ、ストーカー認定され、あれこれ悩んだ挙句「好きな人の為に一番役に立てる方法は、『ストーカーがこの世からいなくなることだろう』」と論理的帰結を見出しました。すなわち、「どのように死ねば他人に迷惑をかけないか」という思案をしていた頃です。しかし、死ぬのが怖くて死ねなかったわけです。まあ、愛の告白なんてものをしておいて、なんとも軽薄なことですが、今もこうしてのうのうと生きています。本当に情けないですね。


 死ぬには極力他人に迷惑をかけないのがよかったのです。
 なので、とりあえず身辺整理をしようかと、持ち物の処分から始めました。子供の頃から大事にしていた遊戯王カードなんかは、冥途に持っていきたかったので順番の最後に回しました。手元に残すには大きいものや、付き合いが浅いもの、貰い手がすぐにつきそうなものから順に、学内の人間に貰ったくれないかと打診して回りました。今風に言うのなら、終活の一環です。
 当時描いていた絵を綴じたファイルであったり、趣味のひとつとして手を出していたタロットカードだったり、あれこれ処分していきました。そうして、バイオリンも無事貰い手がつきました。呆気なくお別れです。


 それから10年以上が経っても、こうして覚えているのですから、やはり惜しむ気持ちはあるのでしょう。
 渡した相手が、わたしに、想い人からストーカーと呼ばれていると教えた当人だったというのも複雑な気持ちです。いえ、バイオリンを貰って活用できそうだったのが、お金持ちのお嬢様で楽器を嗜んでいた彼女ぐらいのものでしたので……。日常的な無意識の自慢話の中で、バイオリンを弾けると話していたのを覚えていましたので、使い潰しの練習用にでもなればと、わたし風情が買えた安物を渡したわけです。
 その後に死ぬこともなかったので、終活に付き合わされた人間からすれば、どうして物品を押し付けられたのかわからなかったでしょう。まあ、今も昔も怪行動の多いわたしですから、そのひとつと思われたかもしれません。



 手放すことなく、少しずつでも練習していれば、今頃特技がひとつはあったのでしょうか。よい歳になって、特技のひとつもない現状を思うと、どうしてもタラレバを考えてしまいます。
 手放した物に思いを馳せたり、そもそも死ぬこともできていなかったり、なにをしようとしても中途半端です。一貫して「わたしらしさ」が変わってないということを実感しますね。

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