過ぎた謙遜は嫌味になる

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 なにかを褒められたとして、それを「いえいえそんなことありませんよ」と返す人を見ると、どうにも面白くありません。
 褒められるだけの何かを持っているのに。そして、褒めてくれる相手がいるのに。謙遜のふりをした否定で会話のキャッチボールを拒絶するその様は、傲岸不遜に見えてしまうからです。
 ええ、はい。少なからず嫉妬心を含んだ捉え方にはなります。

 あるいは、褒め言葉に対して「大したことありません」「こんなの、まだまだですよ」というのも、嫌味に感じます。
 わたしにしてみれば、その「大したことないこと」「まだまだなこと」にすら及ばないわけですから、それ以下であると見下されているようにも感じます。
 はい。これも劣等感を募らせたばかりに発生した歪んだ捉え方ではあります。



 話を少々変えまして、中高生という多感な時期に触れた情報からは人生観に影響を受けることも少なくないものと思います。情報といっても様々にありまして、勉強して得た知識ももちろんそうですし、無二の友人? とかいう都市伝説上の存在と切磋琢磨することもあるのかもしれません。
 わたしの場合は、テレビ番組だったりゲームだったり、漫画や小説といった本だったりというものがそれにあたります。

 その中で、中学の時に読んでいた「六番目の小夜子」からは、ある種のノブレスオブリージュを学びました。
 ノブレスオブリージュとは呼びましたが、本来の意味とはやや違うかもしれません。しかし、持てる者がそれに相応しい振る舞いをするという意味では通じるでしょう。

 作中に登場する成績優秀な美少女である津村紗世子の振る舞いについての序盤の描写にて、それらの属性を持つにありがちな「謙遜や恥じらいが自分に似合わないことを知ってい」て、「自分が優秀であることを認め」ているとあります。
 300頁を超える小説のうちの、このたった3行を読んだ当時のわたしは衝撃を受けました。謙遜するばかりでなく、褒められるに値する自身の能力を認めるという美徳。そのようなものがあるのかと。

 もちろん、(表面上は)完璧美少女である紗世子であるから成立するノブレスオブリージュであるというのも間違いではありません。しかし、なにも紗世子のような人物でなくとも、なにかを「持てる者」ならば少なからず心がけて損はないものと思います。
 この記事の導入で書きました通り、褒め言葉を認めないというのは会話のキャッチボール=対人コミュニケーションの拒絶という障壁に見えます。少なくともわたしには。

 


 また、謙遜と卑下は違います。
 自己評価はどうあれ、他者評価で認められたなら、それは相手にとっての真実でありましょう。その他者評価を、自身の主観で嘘であると決めて応対すれば、なにかしらのすれ違い……過ぎれば軋轢も生まれるでしょう。
 自分の認めた相手が、自身の素晴らしさを認めずに自傷自虐する様というのは見ていられないものです。
 自己肯定感を高くもつというのは存外難しいのかもしれませんが、そんな「自分ごとき」を想ってくれる人がいるのなら、その言葉を受け止めるというのもよいのではないでしょうか。




 処世術、セルフプロデュースとして、褒め言葉に対して、謙遜してみせるのもよいでしょう。ですが、「そんなことありません」という否定の言葉の前のワンクッションとして、「ありがとうございます」を忘れないでおきたいです。

「そんなことないですよ。大したことはしていません」
「ありがとうございます。でも、自分ではまだまだだと思っているので、これからもっと頑張ります」

 同じ謙遜であっても、褒めた方も褒められた方も前向きになれるのは、後者の言い回しではないでしょうか。
 わたしは常々「『ありがとう』で腹は膨れない」とは言っていますが、感謝の言葉というは、受ける側からしてみればそれなりの報酬である事自体を否定するつもりはありません。よほど険のある語調でなければ、言われて嫌な気はしないでしょう。



 まあ、対人コミュニケーションの技術に欠けるわたしの考えなので、あてにはなりませんが。

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