冒頭文
今回の更新が500本目の記事になります。昨年の4月に250本目、つい先日に450本目という話をしていたのに、早いものです。
キリのよい本数の時に何かしらの記念記事を書きたいと思いつつ、大体の場合において、機を逃しているものですが、今回は久しぶりにそれらしい記事にしてみましょう。
ここのところは、数少ない当ブログ読者の需要に応えて、妻とのエピソードを含む下書きを消化しつつ、ネガティブ感情の整理の為の記事は控えておりました。
今回につきましては、ネガティブの滲む平常運転とさせて頂きます。
わたしにとって「根深い」ものはいくつかあります。短期間に一気に深く食い込んで外れないトラウマトリガーは、今回は脇によけておきまして、長期的・慢性的にわたしの考え方に影響がでている課題について触れてみようかと思います。
記事タイトル通り、容姿・体型のコンプレックスの話です。
容姿の自認
人の外見というものは、最終的には見る人の好みによって良し悪しが判断されるものではあります。しかし、「悪し」と判断する人が多数派なら、それは容姿に優れないということでしょう。
わたしもまた容姿に優れるものではありません。「見た目が悪い」とか「醜い」とか言い切ってしまえば、肉親に申し訳なくなるので、あくまで「優れない」という言葉に留めておきます。
老若男女を問わず、人を外見で判断して、笑いものにする人種が世の中にいることは、言うまでもないことかと思います。嗤う側であっても嗤われる側であっても、ヒトが集まればそのような場面に遭遇することはあるでしょう。それを気にするかしないか、気づくか否かという分岐はあるかもしれませんが。
小中高生の多感な時期において、わたしは嗤われる側でしたので、少なくとも学校という狭い社会においては、笑いものにしてよい容姿でありました。
今に至りまして。
究極的にひいき目に見てくれているであろう妻ですら、わたしの容姿について褒めることはありません。「かっこいい」でも「かわいい」でも「綺麗」でも、方向性は違えど容姿を肯定的に表現する言葉は数ありますが、これらはわたしには望むべくもないものです。
超絶に美しかわいい妻の隣を歩くことを許容されている部分に、彼女の寛容さが表れているとも言えます。
かといって、醜形恐怖など病的なものに苛まれるほどではありません。というか、ひとはわたしを嗤うものという考えが染みついている部分があるようで、そこに嫌悪感や恐怖心はあれど、反面、自然なことであると受け入れてしまっています。都度、怒りや悲しみといった激情に駆られていては疲れてしまいますから、自己防衛の観点から適合したものと思います。
痩せていたことがない
容姿の造作もさることながら、他人から嗤われるに至る大きな要因のひとつは、「わたしが太っているから」だと考えています。
人生において、痩せていた時期がないように思います。
先に述べました通り、小中高という多感な時期において、容姿を笑われていました。これは悪意的なものもあれば、無邪気な「いじり」も含まれます。相応の肥満児ではありました。高3の頃に、「人生の教科書」を強く信仰するようになり、その物語や登場人物に恥じない存在になりたいと、それまでよりも熱心にダイエットをしまして、多少マシになった程度です。
その後は太ったり痩せたりを繰り返しています。
一応、妻からは「痩せている」と言われますが、それは妻の価値観においてということでしょう。
全体で見て多少痩せているタイミングである今も、体組成計の測定値からは軽度肥満であると突き付けられていますので、主観的・客観的・数値的にも肥満であることに間違いはありません。
世間は肥満を笑いものにする
世間の人々……と呼んでしまうと、あまりに主語が大きくなってしまいますでしょうか。まあ、しかし、一般に珍しくないという意味において、「世間の人々」です。
世間は、太っているというだけで「体型をいじって笑いにしてよいもの」と捉える人が少なくありません。
それは、わたしにとっては、小中高のときにわたしを笑っていた/嗤っていた、時期においてそれぞれ違う彼ら彼女らに代表されるものです。
あるいは、教師のなかにも体型いじりをする方はありました。
今はどうなのかわかりませんが、かつては見ていたテレビからも、思い知りました。
ダイエット番組などで「この人はこんなに太っています」「こういう生活をしていて太りました」「太っているから生活にこんな支障がでています」というような紹介VTRが流れると、(あとづけの音声かどうかはさておき)笑い声であったり「えーっ」という声であったりが上がっていました。
多数者に向ける発信側の捉え方として、世間から見て、肥満というのは笑うべきもの、信じられないものなのだという考えの表れですね。
「自分たちと違うもの」というのは、動物的には群れから排斥するものなのでしょう。ヒトも動物の一種です。
これは肥満に限らずですが、姿形や考え方や振る舞いやその他のあれこれや……少数派であるというのは、動物的には虐げられて仕方のないことです。ヒトは動物の中でも知性あるものかと思いますが、動物的本能を律する程の知性や理性がないヒトたちにとっては、「自分たちと違うもの」が、しかし「自分たちと同じヒト」であるとは認識できないのでしょう。わかりますとも。
フェティシズム的に
これは公然の秘密なので、内緒にしてほしいのですが、わたしは「ぽっちゃりした女の子が好き」というフェティシズムを持っています。「ぽっちゃり」というかわいい表現をしてはいますが、今回の記事の文脈に従えば「肥満女性」ということです。
ああ、いえ。肉付きのよい男性も「セクシー!」と思う瞬間もありますが、ややこしくなるのでとりあえず気にしないで下さい。
女性は多少……いえ、世間的には過度だとしても、ぽっちゃりしているが素敵だと思っています。
極端な言い方をすれば、全身プヨプヨだろうとブヨンブヨンだろうと、体重が100kgだろうと200kgだろうと、それがその人にとっての「らしさ」であると本人が受け入れている上での肥満なら、魅力的なものであるはずです。
(本題から逸れますが、『スタイルがよい』だけでなく『ぽっちゃり』も好きというのは、単純に好きな属性が増えるので、お得な価値観であると思うのです)
しかし、肥満がわたしから見て魅力的なものであっても、本人が痩身を望むのなら、それを応援したいです。
経験上、太っていることで投げかけられる様々なネガティブがあることはわかっています。仕事柄、肥満体であることで発生する老齢期の生活の困りごとというのも、よーくわかっています。なので、まあ、太っているより痩せている方がよいというのはわかります。
(何事もちょうどよくということで、太りすぎも痩せすぎもよくないという範囲の話です)
何と言いますか、こう、ツイッターはじめとするSNSにて、相手が「太ること」「太っていること」を売りにしている活動者でもないのに、文脈を読まず、平気で「もっと太ったほうがいい」「100kg目指そう」とか、他人に人生に無責任な言葉を投げかけられているのを見かけたことがあります。本人が痩せたいと言っているのなら、それを応援すべきでしょうに。相手の心身の健康は二の次で、自分の「見たいもの」だけを押し付ける下劣さ。
痩せたいと言っている人に「そのままが魅力的」などと無責任な甘言を弄するのは、他者理解でも優しさでもなく、ただの欲望でしょう。
肥満体型……ではなく、ぽっちゃりした女の子には、特有の魅力があると思うのです。外見上においても、内面においてもです。
それは例えば「世間的にネガティブな要素であるものをコンプレックスとしてではなく、自身の在り方として受け入れる姿」という強さだったりします。あるいは、自身がネガティブな感情に曝されたことで培われた優しさだったりします。その内面が反映された振る舞いは美しいものです。強く、優しく、美しく、GO! の三拍子がそろっているので、プリンセスと呼んでもよい属性ですらあります。
外見上の魅力については、ここで話すには気持ち悪いものでしょうから控えますが、まあ素敵なものといって差し支えありません。
と、他人に対しては思えるのですけどね。
それが我が事であれば、肥満をポジティブに捉えることはできません。
容姿に優れなかったことが幸いして
うじうじと悩んだ日々もあった気はしますが、大人になってみれば、というか働くようになってみれば、容姿を気にしている暇もなくなります。学生アルバイトの頃でも、正社員である今でも、容姿云々で判断される部分がまったく無くなったわけではありませんが、職員としての成果物で評価をされます。美貌を持ったところで、それがよほどの魔性のものでもなければ、労働の役に立つものではないでしょう。
そういったこともあり、現状においては「コンプレックスである」というよりも「コンプレックスであった」と表現すべきです。その過去形の古傷から、色々な形でよくないものが出ることはありますが、それはもう仕方のないことですし、さほど影響の大きなものではありません。
容姿に優れなかったことで、かえってよかったこともあります。
嘲笑われる側の気持ちを実体験で知るというのは、非常に大きなものです。これの有無で、自他に対する価値観が変わります。
ヒトは皆違うもの、自分と違うからといって、それを異物として排斥・玩弄・嘲笑してよいものではないこと。そして、皆違うからこそ、相互不理解が基底にあること。彼ら彼女らの掲げる「仲間」だとか「友達」だとかが如何に軽薄なものであるかということ。
おかげで、わたしの大嫌いな彼ら彼女らと隔絶した価値観を以て生きることができています。
あるいは、刃傷沙汰を起こさずに済んでいるというのも利点でしょう。
依存・執着・嫉妬・独占欲・被害(または加害)妄想・etc……という「メンヘラ」要素を豊富に取りそろえているわたしです。メンヘラという言葉は他人に向けるにはあまりに酷い言葉ですが、それをあえて自分に向けましょう。より平易に言うのなら、性格に難があるということです。
少ないながら存在するわたしを好意的に見て下さる方々からしても、「こいつがよい人間関係を築けないことについては納得できる」という評を頂けるものと思います。とにかく性格に難があります。
これで下手に容姿が美しかったのなら、見た目よし性格ブスの見本として教科書に載っていたことでしょう。そして、容姿だけに釣られて近寄ってくる人間ばかりと関わって、今以上に人間不信になり、死ぬだの殺すだのと軽々しく叫び、刃物でも振り回していたものと思います。
他人が下心で近づいてくるような外見を持たずに生まれて、よかったです。本当に。
そして、よき人と関われているというのも、美しくなくて良かったことだと思います。
妻にすら外見を褒められないというのは、逆に言えば、妻はわたしを内面だけで好いてくれているということの証明でもあります。内面を褒められた覚えがあるかというと、それも怪しいですが、なにかしらあったとは思います。たぶん。
妻だけでなく、わたしによくしてくれる方々は、間違いなく「人を見た目で判断しない」という素晴らしい人々です。人を外見で嗤うような連中とは付き合うこともなく済むのですから、よきものです。
なにかしらの劣等感など珍しくもない
ヒトは完璧ではありませんから、誰しもがそれぞれに長短を持っています。誰もがなにかしらの劣等感を抱えているものでしょう。わたしのあれこれなど別に珍しくもありません。こうして、いちいち文章にするほどのものですらないでしょう。
自分が弱点を持っていることをそれぞれに自覚しているはずなのだから、他人の弱点を突いて貶めたり辱めたりすることもないはずなのに。
他人を嗤えるほど、自分は立派な人間じゃないと誰もが自省できればよいのに。
どこまでいっても、「自分と違うもの」が「自分と同じ人間」であると認識できないから、攻撃に躊躇はないし、当然に呵責もないのでしょう。
せめて、なにかしらの劣等感に悩んだ経験を自覚している人は、他人に優しく生きられればよいと思います。
そのように考えながら、わたしは他人に優しくできないし、ついでにダイエットも芳しくないのですが。
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